環境と生命の動的な関係
寄稿論文:2005年9月8日
福岡伸一(分子生物学者)
環境の問題を考えるとき、私たちヒトは決して環境と 対峙しているわけではありません。むしろヒトを含めて生命体はすべて環境の一部として大きな平衡系の中にあります。それを実感としてつかむために、ひとつ質問をさせてください。それは、「なぜ私たちは食べつづけなければならないのでしょう?」という問いです。この素朴な疑問に正確に答えるのは意外と難しいのです。私たちの身体は自動車のエンジンのようなものであり、それを動かすためにはエネルギー源が必要だから、という解答はどうでしょうか。間違ってはいませんが、生命現象のもつ別の一面、ある意味ではより一層重要な特徴を見落としています。実際、私たちは、炭水化物などのカロリー源だけでは生きていくことができません。必ず、タンパク質を食べ続けなければならないのです。タンパク質にあって、炭水化物や脂質には含まれていないものはなんでしょうか。それは窒素という元素です。ヒトを含むすべての生物は、カロリー源、つまり炭素と酸素と水素からなる食料の他に、かならず窒素を含む食料、すなわちタンパク質を必要とします。食べ物をカロリーベースだけから捉える考え方は、一面的すぎるのです。では窒素は私たちの身体の中で何を行っているのでしょうか。それは“情報”の構築に使われているのです。
今からほんの60年ほど前、生命科学上極めて重大な発見がありました。ルドルフ・シェーンハイマーという亡命ユダヤ人科学者が、窒素原子に“目印”を付けるというアイデアを得ました。同位体標識法という方法です。これを使えば窒素原子がどこで何をしているか、ずっと追跡することができるようになります。彼は目印をつけた窒素原子でアミノ酸を作り、実験用ネズミに食べさせてみました。そして時間を追って、それらがどこに行くかを追跡してみたのです。食べた標識アミノ酸は瞬く間に全身に散らばり、その半分以上が、脳、筋肉、消化管、肝臓、膵臓、脾臓、血液などありとあらゆる臓器や組織を構成するタンパク質の一部となっていました。しかし、標識アミノ酸はそこにとどまることなくしばらくすると分解されて体外に排出されていったのです。つまり私たちの細胞を構成しているタンパク質は、アミノ酸のレベルで見ると、絶え間のない分解と再構成を繰り返しているということです。自動車のエンジンにたとえられた私たち生命体は、エンジンのようにパーツが機械的に組み合わさってできているのではなく、エンジンそのものがミクロなレベルで絶え間なく更新されている、そのようなダイナミズムの中にあるのです。アミノ酸は20種類あり、じゅず玉のように連なってタンパク質を構成します。ちょうど、アミノ酸は、A,B,C,D・・といった個々のアルファベット、たんぱく質はそれらの組合せからなる言葉にあたります。アルファベットとしてのアミノ酸は、身体に取り込まれると新しいタンパク質を構成すること、つまり新しい言葉を作り出すのに使われます。複数のたんぱく質は組み合わさって、さらに高次の文章、すわなち“情報”を構築します。一方で、タンパク質は常に分解されています。一定の情報をたもちつつ、更新していくこと。これが生命体の環境への適応を保証するシステムであり、生きていることそのものでもあるのです。私たちはこの流れを維持するために、食べつづけなければならないのです。シェーンハイマーは、この生命の特異的なありように「動的な平衡」という素敵な名前をつけました。
さて、私たちの食べ物はどこから来るでしょうか。それは他の生命体の一部だったものが食べ物となります。元の持ち主がもっていた情報を、私たちは消化システムによっていったんアルファベットのレベルにまで解体してから、自分自身の文法にしたがって再構築していくわけです。つまり、環境を形作っている分子群は、私たちの体の内部でつかの間、秩序を形成し、また次の瞬間、環境へと戻っていくわけです。つまり、環境は私たち生命体を通り抜けているのです。私が最初に「生命体はすべて環境の一部として大きな平衡系の中にある」といったのは実はこういうことだったのです。
以上
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